メディアとしてのコンピューターとAI
CBS Newsが2018年4月22日に報じたMIT Media Labの姿には、いわゆる「最先端技術」の紹介以上のものがある。そこに映っていたのは、新しい機械の陳列ではなく、技術そのものに対する見方の転換だった。
この場所では、コンピュータはもはや単なる計算機ではない。人と情報、人と身体、人と空間、人と他者をつなぎ直すためのメディアとして扱われている。
この発想は、いま読むとむしろ新鮮だ。
私たちはつい、技術を性能で語ってしまう。処理速度、精度、効率、最適化。もちろんそれらは重要だが、MIT Media Labが早い段階から見ていたのは、その先にある問いだった。
その技術は何を速くするかではなく、誰に何を伝えるのか。
その技術はどれだけ正確かではなく、どんな体験を開くのか。
その技術はどれだけ賢いかではなく、どれだけ人の表現や参加を拡張できるのか。
そこでは、コンピュータは答えを出す装置というより、現実の感じ方を組み替えるための媒体として立ち上がっている。
同時に、Media Labのもう一つの重要な思想は、研究を分野の内側に閉じ込めないことだ。
工学、デザイン、芸術、教育、建築、通信。これらは通常、それぞれ別の制度、別の言語、別の評価軸のもとに置かれる。しかし未来の体験は、たいてい単独の専門分野からは生まれない。身体に触れる技術は、機械の問題であると同時に感覚の問題でもある。遠くにいる誰かとつながる技術は、通信の問題であると同時に心理や空間の問題でもある。学びの技術は、情報処理の問題であると同時に、どう記憶し、どう参加し、どう世界を受け取るかという問題でもある。
だからこそ、あの場所は研究室というより交差点に見える。
専門を磨くことより、専門どうしを衝突させること。その摩擦のなかから、まだ名前のない技術が生まれてくる。
ここで目立っているのは、技術の派手さではない。むしろ、技術の目的の置き方だ。
MIT Media Labで試みられているものは、単に「できること」を増やすための発明ではない。人が今より少し遠くまで届くための装置であり、言葉にならない感覚に輪郭を与えるための手段であり、これまで参加できなかった人が世界に入り直すための入口でもある。
つまり技術は、機能の拡張ではあっても、それ以前に生活と表現の拡張として構想されている。
速いだけでは足りない。
新しいだけでも足りない。
その技術によって、人は何を感じ直し、何を伝え直し、どのように他者と関わり直せるのか。
その問いが中心にある。
おそらく、CBS Newsの記事が伝えていた「未来工場」という言葉の意味もそこにある。
それは製品を量産する工場ではない。アイデアを現実に変える場所であり、しかもそのアイデアは、単なる便利さではなく、人間の生のあり方そのものを少し拡張するものでなければならない。
未来とは、画面の中の高性能な処理として先に来るのではない。
未来はむしろ、触れ方が変わること、伝わり方が変わること、参加の仕方が変わることとして現れる。
そして現代、その変化はAIによってさらにわかりやすく現れている。
コンピュータは、もはや単なる計算機ではない。
コミュニケーターであり、思考者であり、ときにこちらの考えを押し広げる壁打ち相手にもなっている。
その意味で、MIT Media Labが長く見てきたものは、技術の未来というより、人間の未来だったのだと思う。
いま私たちが向き合っているのは、高性能な機械の登場というだけではない。
人とコンピュータの関係そのものが、道具から対話へ、処理から媒介へと移り変わっている、その転換なのである。